人生最大の試練
人生最大の試練 創世記22:1~14
①皆様おはようございます。7月最後の日曜日を迎えました。本日は創世記22章を開いていただきました。ご存知のようにアブラハムの生涯の最大の出来事です。この箇所は私にとっては忘れることの出来ない場所です。
以前もお話したと思いますが、ナザレンのユースキャンプでこの場面の寸劇を行いました。私の役は、何と犠牲になった子羊でした。目立たないように、逃げようとするのですが、捕まえられて、とうとう生け贄にされる。当時はやりの「想定外だ」を連発して、最後に、ピアノの中にあった赤い布をドバッと開いて、血に見せて終わりを迎える。この役のおかげで、私は助演男優賞をいただきました。
初めて動物の気持ちを考えながらの役でしたが、いい経験になりました。
②老年になって訪れた最大の試練
ここにはアブラハムが経験した最大の試練が書かれています。自分が祈りに祈って与えれた息子を殺せとは。神さまもずいぶん意地悪です。青学の学生の皆さんにアブラハムを教えますと、それにしてもなぜ神さまはそのような試練を与えられたのですかという問いがかえってきます。
この時期はアブラハムにとって念願の子どもも与えられ、21章にゲラルの王アビメレクと誓いを交わし、ベエルシェバで井戸を獲得したことも語られていました。生活の基盤としての水を得たアブラハムは、老境に入りつつあって、最も充実した人生を送ろうという矢先の出来事でした。そこに最大の試練がふりかかるのです。
③試練のない人生はないことも事実
以前、ある後輩から言われたことがあります。先生はとても恵まれていますよね。牧師で大学や神学校でも教えて、皆さんから信頼されて、何も言うことのない人生じゃないですかと。そのように見える?確かに私は幸せな人生を送れていると思うけれど、それは神さまの恵みに他ならない。それでも、持病はあるし、様々な試練はあるんだよという話をしたら、先生でも苦しい時があるのですかって驚いていました。
どんなに成功したように見える人でも、試練のない人生はないのだと思います。私は、一日何度も講壇の前で祈ります。十字架を見上げて。そうしないと、試練に耐えられないからです。皆さんが味わっておられる試練と比べたらそれは試練とは言えないものかもしれません。それでもアブラハムの味わっていることは、大なり小なり、アブラハムの経験と同じような心情になるのではないかと思います。ちなみにネットで試練・イラストってくるとこの習字がたくさんみられます。
④物語の始まり 愛する子を献げよ
22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
神さまは2節にあるように「愛する独り子イエスをささげなさい」と仰いました。神さまはこの言葉が象徴するように、アブラハムにとってイサクという存在がどれだけ大切かをご存知でした。あなたの子孫を祝福する。祝福の基となるのだという約束を受け、旅に出たアブラハム。イサクは約束の子でした。まさに愛する独り子でした。それでも「彼を」という言葉を聞いた時のアブラハムの気持ちを察すると心がしめつけられる思いがします。その奇跡の子イサクを失うならば、これまでの神さまの約束は反故になり、今後の彼の人生もイサクなしで計画しなければなりません。そのような事は無理です。まさしくアブラハムにとっては想定外の出来事でした。
一体、彼はどのように神さまに応答したのでしょうか。私でしたら、どうするのか。私の両親は、最終的に私の献身を赦してくれましたが、子どもを神にささげるとはどういうことなのだろうか。改めて考えたいと思います。
⑤いつもとは異なる試練
それも、今回の試練は、これまでとは異質の試練でした。今までもアブラハムは多くの試練にあいましたが、その試練を解決しようと、妻を妹と偽ったりして姑息な手段を繰り返してきました。ある時は自分の主張を曲げてロトに土地を譲りました。今回の試練は、神の約束自体が反故になるかどうかという試練なのです。アブラハムは「耳を疑った」と言うのはこういうことだと思いますね。神の為した約束を神が無効にするのかという信仰の根本的な問題です。アブラハムはこれまで見えていたと感じていた神の導きが見えなくなったのではないでしょうか。
⑥アブラハムの応答
それではこの試練にアブラハムがどのように応答していったのかをみていきましょう。かなり緊張した場面です。アブラハムは驚くほど無言です。
1)22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
まず、彼は「はい」と答えていますが、その後の神さまの命令には無言です。
2) 22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
3)11節 「アブラハム、アブラハム」「はい」
「はい」「はい」ときて「息子よここにいる」となっていますが、それは、同じ言葉が使われています。英語でいうと"Here I am"という言葉です。
⑦アブラハムの前向きの姿勢
このことは何を意味しているのでしょうか。それはアブラハムはこのような状態の中にあっても、神の呼びかけにすぐに答え、息子の呼びかけにここですと答える。逃げないのです。アダムがイブは「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけに隠れましたよね。
アブラハムはそうではない、彼はこの時に妻を妹と偽るような姿ではなく、この試練の中で何とか神さまにくらいついていこうという姿勢が見られるのではないでしょうか。
その証拠に、彼は神さまに息子を連れて行きなさいと言われ、翌朝、すぐに旅立ちます。本当はずっと考えていたかったかもしれません。私だったらしばらくそうしたかもしれません。アブラハムがいたところからモリヤの山までは80キロくらいだと言われています。
有言実行しているのです。ここにアブラハムのすごさをみる思いがします。
沈黙の後、彼はそこでいろいろと考えていたことでしょう。
⑧神が備えてくださる
息子イサクの「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」という問いに対して彼は8節で、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えています。この「備えてくださる」という言葉は、「見る」という言葉です。直訳すれば、「彼がご覧になるであろう」となります。つまりこれは、神様ご自身が見ていて下さる、そのまなざしの中で全てのことを備えていて下さる、ということです。
ここにアブはラムが立つことのできる根拠がありました。この言葉から摂理という言葉がでてきますね。
アブラハムは神のまなざしが自分にも注がれているに違いない。この厳しい状況で神は前もって見てくださると信じたのです。実はここから摂理という言葉が生まれてきました。pro+video provision で摂理です。よく私たちは摂理の神を信じると告白しますが、それはこの苦しい状況をも前もって見つめてくださる方の視線を感じつつ生きていくということです。神さまは何らかの脱出の道を備えてくださるに違いない。そういう境地に達したに違いありません。
⑪より深い信仰を求めて
聖書は、ここでアブラハムの感情にはあまり言及していません。それをやりだすと本来的な聖書のメッセージから離れていくからかもしれません。聖書はアブラハムがひたすらこの問題と取り組んだということを語ります。ある意味で絶対絶命の中で、神の御心が霞んでいく中で、それでも神の摂理を信じて歩む信仰が求められています。試練の中で私たちは怖じ惑います。神の御心が解らなくなります。その中でもがきながらも、自分の限界が突破されて、どんな中でも神はご覧になっておられる、備えがあるという信仰に変えられていく。そこにこそ信じる意味があるのではないでしょうか。というのも私たちに出来ることは神が備えてくださるものを受け入れていくことしか出来ないからです。そういう意味で「神様力をお貸し下さい、強めて下さい」という祈りから、「神様あなたが見つめておられ、備えていて下さる道を、私たちに示し、歩ませて下さい。私たちが道を見失い、あなたを見失う時にも、あなたが私たちを見つめておられ、私たちに備えていて下さるものを受け入れて歩むことができるようにして下さい」、という祈りに変えられていかなければならないのです。そこに究極の信仰があるのです。
⑫神のねぎらい
12節をちょっと一緒に読んでみたいと思います。22章12節――
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
ここには神さまの最高の褒め言葉が記されているように思います。今まで、アブラハムは試練の時にごまかしをしてきたこともあります。これは改めてアブラハムの決断と信仰をもって主がアブラムの信仰をねぎらってくださった最大の褒め言葉だと思います。一番肝心な時に、私を第一として行動したと
それは、アブラハムがこの試練との戦いの中で与えられた、「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)、「主の山に備えあり」という信仰を私たちも告白する者となる、ということです。「主の山に備えあり」と信じて生きる者は、試練に負けることはないのです。
⑬「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
それと同時に、この自分の独り子である息子すらわたしにささげることを惜しまなかったという言葉の意味の深さを味わわなければいけません。
神さまは、将来、この独り子を犠牲にして私たちの為に十字架にかけられたのです。神さまはここで、犠牲となる動物を備えてくださいましたね。犠牲の動物の役となった私はそのことが痛いほどわかります。そしてイサクは救出されました。しかし、神さまは自分の独り子を犠牲にしてその痛みを自分の中に引き受けられたのです。アブラハムは、最後の最後に、息子イサクの代わりに献げる雄羊を与えられました。主の備えによってイサクは死なずにすんだのです。しかし主イエス・キリストは、誰も代わってくれる者もなく、十字架につけられて死なれたのです。
今週も主は万全の備えをもって私たちを導いてくださいます。
①皆様おはようございます。7月最後の日曜日を迎えました。本日は創世記22章を開いていただきました。ご存知のようにアブラハムの生涯の最大の出来事です。この箇所は私にとっては忘れることの出来ない場所です。
以前もお話したと思いますが、ナザレンのユースキャンプでこの場面の寸劇を行いました。私の役は、何と犠牲になった子羊でした。目立たないように、逃げようとするのですが、捕まえられて、とうとう生け贄にされる。当時はやりの「想定外だ」を連発して、最後に、ピアノの中にあった赤い布をドバッと開いて、血に見せて終わりを迎える。この役のおかげで、私は助演男優賞をいただきました。
初めて動物の気持ちを考えながらの役でしたが、いい経験になりました。
②老年になって訪れた最大の試練
ここにはアブラハムが経験した最大の試練が書かれています。自分が祈りに祈って与えれた息子を殺せとは。神さまもずいぶん意地悪です。青学の学生の皆さんにアブラハムを教えますと、それにしてもなぜ神さまはそのような試練を与えられたのですかという問いがかえってきます。
この時期はアブラハムにとって念願の子どもも与えられ、21章にゲラルの王アビメレクと誓いを交わし、ベエルシェバで井戸を獲得したことも語られていました。生活の基盤としての水を得たアブラハムは、老境に入りつつあって、最も充実した人生を送ろうという矢先の出来事でした。そこに最大の試練がふりかかるのです。
③試練のない人生はないことも事実
以前、ある後輩から言われたことがあります。先生はとても恵まれていますよね。牧師で大学や神学校でも教えて、皆さんから信頼されて、何も言うことのない人生じゃないですかと。そのように見える?確かに私は幸せな人生を送れていると思うけれど、それは神さまの恵みに他ならない。それでも、持病はあるし、様々な試練はあるんだよという話をしたら、先生でも苦しい時があるのですかって驚いていました。
どんなに成功したように見える人でも、試練のない人生はないのだと思います。私は、一日何度も講壇の前で祈ります。十字架を見上げて。そうしないと、試練に耐えられないからです。皆さんが味わっておられる試練と比べたらそれは試練とは言えないものかもしれません。それでもアブラハムの味わっていることは、大なり小なり、アブラハムの経験と同じような心情になるのではないかと思います。ちなみにネットで試練・イラストってくるとこの習字がたくさんみられます。
④物語の始まり 愛する子を献げよ
22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
神さまは2節にあるように「愛する独り子イエスをささげなさい」と仰いました。神さまはこの言葉が象徴するように、アブラハムにとってイサクという存在がどれだけ大切かをご存知でした。あなたの子孫を祝福する。祝福の基となるのだという約束を受け、旅に出たアブラハム。イサクは約束の子でした。まさに愛する独り子でした。それでも「彼を」という言葉を聞いた時のアブラハムの気持ちを察すると心がしめつけられる思いがします。その奇跡の子イサクを失うならば、これまでの神さまの約束は反故になり、今後の彼の人生もイサクなしで計画しなければなりません。そのような事は無理です。まさしくアブラハムにとっては想定外の出来事でした。
一体、彼はどのように神さまに応答したのでしょうか。私でしたら、どうするのか。私の両親は、最終的に私の献身を赦してくれましたが、子どもを神にささげるとはどういうことなのだろうか。改めて考えたいと思います。
⑤いつもとは異なる試練
それも、今回の試練は、これまでとは異質の試練でした。今までもアブラハムは多くの試練にあいましたが、その試練を解決しようと、妻を妹と偽ったりして姑息な手段を繰り返してきました。ある時は自分の主張を曲げてロトに土地を譲りました。今回の試練は、神の約束自体が反故になるかどうかという試練なのです。アブラハムは「耳を疑った」と言うのはこういうことだと思いますね。神の為した約束を神が無効にするのかという信仰の根本的な問題です。アブラハムはこれまで見えていたと感じていた神の導きが見えなくなったのではないでしょうか。
⑥アブラハムの応答
それではこの試練にアブラハムがどのように応答していったのかをみていきましょう。かなり緊張した場面です。アブラハムは驚くほど無言です。
1)22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
まず、彼は「はい」と答えていますが、その後の神さまの命令には無言です。
2) 22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
3)11節 「アブラハム、アブラハム」「はい」
「はい」「はい」ときて「息子よここにいる」となっていますが、それは、同じ言葉が使われています。英語でいうと"Here I am"という言葉です。
⑦アブラハムの前向きの姿勢
このことは何を意味しているのでしょうか。それはアブラハムはこのような状態の中にあっても、神の呼びかけにすぐに答え、息子の呼びかけにここですと答える。逃げないのです。アダムがイブは「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけに隠れましたよね。
アブラハムはそうではない、彼はこの時に妻を妹と偽るような姿ではなく、この試練の中で何とか神さまにくらいついていこうという姿勢が見られるのではないでしょうか。
その証拠に、彼は神さまに息子を連れて行きなさいと言われ、翌朝、すぐに旅立ちます。本当はずっと考えていたかったかもしれません。私だったらしばらくそうしたかもしれません。アブラハムがいたところからモリヤの山までは80キロくらいだと言われています。
有言実行しているのです。ここにアブラハムのすごさをみる思いがします。
沈黙の後、彼はそこでいろいろと考えていたことでしょう。
⑧神が備えてくださる
息子イサクの「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」という問いに対して彼は8節で、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えています。この「備えてくださる」という言葉は、「見る」という言葉です。直訳すれば、「彼がご覧になるであろう」となります。つまりこれは、神様ご自身が見ていて下さる、そのまなざしの中で全てのことを備えていて下さる、ということです。
ここにアブはラムが立つことのできる根拠がありました。この言葉から摂理という言葉がでてきますね。
アブラハムは神のまなざしが自分にも注がれているに違いない。この厳しい状況で神は前もって見てくださると信じたのです。実はここから摂理という言葉が生まれてきました。pro+video provision で摂理です。よく私たちは摂理の神を信じると告白しますが、それはこの苦しい状況をも前もって見つめてくださる方の視線を感じつつ生きていくということです。神さまは何らかの脱出の道を備えてくださるに違いない。そういう境地に達したに違いありません。
⑪より深い信仰を求めて
聖書は、ここでアブラハムの感情にはあまり言及していません。それをやりだすと本来的な聖書のメッセージから離れていくからかもしれません。聖書はアブラハムがひたすらこの問題と取り組んだということを語ります。ある意味で絶対絶命の中で、神の御心が霞んでいく中で、それでも神の摂理を信じて歩む信仰が求められています。試練の中で私たちは怖じ惑います。神の御心が解らなくなります。その中でもがきながらも、自分の限界が突破されて、どんな中でも神はご覧になっておられる、備えがあるという信仰に変えられていく。そこにこそ信じる意味があるのではないでしょうか。というのも私たちに出来ることは神が備えてくださるものを受け入れていくことしか出来ないからです。そういう意味で「神様力をお貸し下さい、強めて下さい」という祈りから、「神様あなたが見つめておられ、備えていて下さる道を、私たちに示し、歩ませて下さい。私たちが道を見失い、あなたを見失う時にも、あなたが私たちを見つめておられ、私たちに備えていて下さるものを受け入れて歩むことができるようにして下さい」、という祈りに変えられていかなければならないのです。そこに究極の信仰があるのです。
⑫神のねぎらい
12節をちょっと一緒に読んでみたいと思います。22章12節――
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
ここには神さまの最高の褒め言葉が記されているように思います。今まで、アブラハムは試練の時にごまかしをしてきたこともあります。これは改めてアブラハムの決断と信仰をもって主がアブラムの信仰をねぎらってくださった最大の褒め言葉だと思います。一番肝心な時に、私を第一として行動したと
それは、アブラハムがこの試練との戦いの中で与えられた、「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)、「主の山に備えあり」という信仰を私たちも告白する者となる、ということです。「主の山に備えあり」と信じて生きる者は、試練に負けることはないのです。
⑬「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
それと同時に、この自分の独り子である息子すらわたしにささげることを惜しまなかったという言葉の意味の深さを味わわなければいけません。
神さまは、将来、この独り子を犠牲にして私たちの為に十字架にかけられたのです。神さまはここで、犠牲となる動物を備えてくださいましたね。犠牲の動物の役となった私はそのことが痛いほどわかります。そしてイサクは救出されました。しかし、神さまは自分の独り子を犠牲にしてその痛みを自分の中に引き受けられたのです。アブラハムは、最後の最後に、息子イサクの代わりに献げる雄羊を与えられました。主の備えによってイサクは死なずにすんだのです。しかし主イエス・キリストは、誰も代わってくれる者もなく、十字架につけられて死なれたのです。
今週も主は万全の備えをもって私たちを導いてくださいます。
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