新たに遣わされる私たち マルコ5:1-20
新たに遣わされる私たち マルコ5:1-20
①はじめに
皆様おはようございます。9月になりました。以前は9月の第一日曜日は振起日ということで以前は守っていたように思います。今年はコロナもあり、本当に辛く窮屈な日々を私たちは過ごして参りました。後半になり、もう一度心を新たにして信仰の道を歩んでいきたいと思います。暑い日々が続いておりますが、神さまの恵みをうけて邁進いたしましょう。 本日の箇所は祈祷会でもやりましたので、祈祷会に出ておられる方は復習と思って聴いていただきたいと思います。本日の箇所はゲラサ地方で起こったとあります。ここは異邦人の待ちであり20節にはデカポリスという名称がでてきますが、デカは10を意味しますから10の異邦人つまりローマ人が建てた町があったということです。ゲラサはその町の一つです。
ここでのイエスはある人を追っておられます。それは汚れた霊に取り憑かれたゲラサ人です。とても異様な姿と状況がそこにはありました。3節を見ますと、鎖で止めておくことも出来ない、つないでいた鎖は引きちぎる。何よりも墓場を住まいとしている。この人の生き方はとても自虐的です。おそらく他の人であったら関わりたくない。そういう人物ですね。
②自虐的に生きる人々
彼の姿は勿論皆さんとはかなり離れている姿であると思います。彼にとって注目すべきなのは、追いやられているという事ではないでしょうか。平常通りの生活が出来ずについつい自分を痛めてしまい、凶暴になり、この世から隔絶した場所でしか生きれない方々。
特に人から痛められた経験はとても辛い経験です。家庭内暴力により長年痛めつけられた人々と接してきました。それは簡単には拭い去ることのできない病です。それによって引き起こされる病気に愛着障碍というものがあります。
ネットで調べると「乳幼児期に長期にわたって虐待やネグレクト(放置)を受けたことにより、保護者との安定した愛着(愛着を深める行動)が絶たれたことで引き起こされる障害の総称。[補説]愛着障害を示す子供には衝動的・過敏行動的・反抗的・破壊的な行動がみられ、情愛・表現能力・自尊心・相手に対する尊敬心・責任感などが欠如している場合が多い。他人とうまく関わることができず、特定の人との親密な人間関係が結べない、見知らぬ人にもべたべたするといった傾向もみられる。」とありました。
そのようなことを考えますと、わりと自虐的に生きざるを得ない方々が現代世界にもたくさんおられるのです。できるだけ優しく、愛情をもって接する覚悟が必要です。そのことを考えますと、彼の状況は本当に辛い状況ですね。
③鎖と足かせにつながれる生き方
そして当然ながらそのような彼は鎖と足かせにつながれているのです。この姿をみると、私は、奴隷船でアフリカからアメリカにつれて来られた方々を思います。皆さんに何度もお見せしたように船の底でがんじがらめになって身動きがとれない状況。でもそれは昔のことだけではないのです。私たちもまた罪や不安の鎖や足かせにつながれてしまうことがあるのです。ちょっとしたことで前進できなくなることがありますね。突然の事故、病気、今まで順調であった人生が動かなくなるのです。そういう人々をイエスさま追って来られます。わざわざ彼に会いに来られたイエスさまは、同じように私たちにも会ってくださるのです。
④悪霊
マルコによる福音書はこのことを起こさせている原因として悪霊の存在をあげています。悪霊の言葉として最初に語られているのが7節の言葉です。「大声で叫んだ。いと高き神の子イエス。かまわないでくれ」この言葉は悪霊が彼に叫ばせている言葉なのです。
実は、注解書を見ますと、「いと高き神」という言い方は、いかにも信仰深い言葉のように聞こえますが、実は異邦人がイスラエルの神、主なる神を呼ぶ時の言い方だそうです。ウェスレー時代にメソジストというのが几帳面やという意味で、規則ばかりを守る人たちというあだ名がついたのですが、これはある意味で神を信じているからこう呼びかけるのではなく、むしろ信じていないから呼びかける言葉なのです。それでもある人は6節に「彼は走り寄ってきてひれ伏した」とあるではないかと言われると思いますが、礼拝したとは書いてありません。そういう姿を見せていかにも信心深いのだということを見せているだけです。
悪霊の本意は、むしろ後半の「かまわないでくれ」にあります。新改訳ですと「私と何の関係があるのですか」となります。つまり自分とあなたとは関係がない。いや関係を結びたくないということです。これは自分でやっていることなので口出ししてもらっては困るということです。私たちはこのような悪霊の存在にきをつけなければなりません。悪霊は私と神さまとの関係をぶち壊し、疎遠しようとするのです。
⑤ イエスさまのかかわり
そういう中でイエスさまはむしろ関わりを持とうとされます。イエスさまはそのような人の声に耳を傾けられます。最近気になることはsocial distanceという言葉です。私は社会的な隔たりを示すようにとても嫌いです。この言葉は肉体的な距離を指す言葉です。ですから本来はフィジカルディスタンスとしなければなりません。ウェスレーは宗教は社会的な宗教であり孤独の宗教ではないと言いました。私たちは関わりを持たなければ生きていけない存在です。イエスさまはそのようにこの世に悪霊が漂うこの世に埋もれている私たちに目を留めてくださりこの人と向き合うように私たちを抱きしめてくださるのです。
マタイでは人々はこの近くの道を避けて通ったとあります。イエスさまは避けずに関わってくださるのです。
⑥イエスさまの力強い言葉
イエスさまは、この悪霊からこの人を解き放つというとても強い意志を持っておられました。まさに私たちを束縛しているものから私たちを解放する為に主イエスは来られたのです。8節をご覧ください。「イエスが、『汚れた霊、この人から出て行け』と言われた」とあります。主イエスは、まさにこのことのために嵐の湖を渡ってこの異邦人の地に来られたのです。私たちもそのようにして主イエスと出会いました。罪に囚われていた私たちを救う為に主イエスは来られたのです。そして宣言をしてくださいます。
この時に主は名前を問うておられます。9節です。相手の答えは「レギオン」でした。この名前は問うことには意味があります。相手の名を問い、答えさせることは、相手よりも優位に立ち、支配することを意味しているそうです。ですからこれは、イエスさまが悪霊よりも優位に立つことを意味しています。
⑦「レギオン」を上回る主イエスの権威
さらにこの悪霊の名前は「レギオン」であったということが言われています。レギオンとは、ローマ帝国の軍隊の名前は4000~6000人の部隊だと言われています。しかしその名前を名乗らせることによって今や主イエスの主権が確立されました。さらに主イエスは権威をもって「汚れた霊、この人から出て行け」とお命じになりました。私たちはこの主イエスが生きて働かれる時のすごさをもっと実感する必要があるのではないでしょうか。イエスは敵がどれだけ多くても、力を持っていても、さらなる力を発揮されるということです。この数の多さは、この後の箇所、特に13節を見ればわかります。「汚れた霊どもはこの人を出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」とあります。これは、主イエスがこの人から悪霊を追い出しただけでなく、その悪霊を滅ぼして下さったことを示す出来事なのです。何という力強い主イエスの権威でしょうか。
⑧服を着て正気になった男性
さて、この男はどのようになったのでしょうか。15節をご覧ください。「彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取り憑かれていた人が服を着て正気になって座っているのを見た」と書かれています。まず重要なのは「服を着て」という言葉です。彼は以前は裸でした。その彼が服を着たということは日常の生活の秩序に戻りつつあるということです。さらに「正気になって」は「我を取り戻す」ということであり、人間回復ですよね。本来の自分の姿を取り戻したということは何というグッドニュースでしょうか。さらに「座っている」という言葉は感動的です。座って何をするかということ、御言葉を聴く為に座っているということですね。既に見たように、俺にはかまわないでくれ。放っといてくれと言っていた者がまさに神の御言葉を聴こうとそこにかしこまっている姿は感動的です。彼は様々なものにとらわれ、そして世間からも厭われ生活してきました。それほど悪霊の力は強力だったに違いありません。その彼が神の前に御言葉を渇望して座っている。この場所ほど感動的なシーンはないのではないかと思います。
⑨正気になった男を遣わすイエスさま
その彼を主イエスは遣わされます。18節を見ると、彼はあまりにもイエスさまの救いが大きく、一緒に行きたがったとあります。ところがイエスさまはその彼にはやるべきことがあると彼を派遣されるのです。それは19節にありますように「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいました。
しかし、このことはとても彼には勇気がいることであったことでしょう。なぜならば今まで自分の事を気が狂ったとみていた人々のところに戻っていくということですから。ですから主イエスはすべての人を牧師とはされません。自分が回復したことを、今度は人間関係の回復を図りなさいと新たな人間関係の構築に召されるのです。自分の家に帰り、主が憐れみ深いこと、主が為してくださったことを語ること」これが証しですね。それが宣教へとなっていくのです。彼が実際にそれを為すと、最後に「人々は驚いた」とあります。神さまの福音のみわざはまさき奇蹟のみわざとして人々に映ったことでしょう。
9月になりました。心を新たに、遣わされてまいりましょう。隣人に主イエスがどれだけ憐れみ深いか語りましょう。
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