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2025年8月24日 苦難の共同体 マタイ10章16~25節

  苦難の共同体 マタイ10章16~25節 ①はじめに  皆様おはようございます。8月第4週となりました。本日は苦難の共同体と題してお話をさせていただきます。    ナザレンの歴史を今授業で話していますが、ナザレンの歴史の中でもいくつかの苦難の時代がありました。食べていくのさえ困難な時代があったのですね。その中でアメリカの教会の宣教師の先生が来て、多くの物質的支援を行ってくれました。ナザレン教会には今もチャプレンがたくさん活躍しています。そういう意味ではとても保守的な教会ですが、戦時中このチャプレンがたくさんいてくれたおかげで教会再建がかなり迅速に進みました。戦時中から復興へと至る過程でこの援助は忘れてはならないことだと思います。現在被害を受けて苦難の中にあるウクライナの町々、教会の復興を祈ります。 ②狼の中に派遣する  さて、本日はマタイ10章16節~25節が主題です。先々週、先週と私たちは主イエスが憐れみをもって人々を見つめられていたことを見てきました。その中で、イエスさまは自分の働きの為に弟子を召し出されました。12人の弟子の多くは、先週お話ししたように迫害の中、命を落としていくのですね。それでも彼らは喜んで遣わされていったことを先週学びました。その遣わされた時にイエスさまが弟子たちに語られたところが本日の主題です。 マタ 10:16 「私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。   16節のこの言葉は、一体どのような意味があるのでしょうか。この言葉は特に重要だったのが、弟子たちが遣わされていく先には迫害の嵐が待っていたからです。まさに狼のような指導者や相手の中で宣教しなければならなかったのです。 ③日本宣教における手強い相手 無関心  皆さんは、今日本において教会の敵は何だと思われるでしょうか。今の日本には戦時中の迫害者や特高のように教会に敵意をむき出す人はいません。でも、今日本において最も深刻なのはみことばに対する飢え渇きがないということです。宗教への無関心です。明確な反対があれば、いろいろと対処できます。でも無反応、無関心は手強い敵ですね。 ④ 無関心はどのように起こるか  狼の皮を被った羊  その無関心はどのように起こ...

2025年8月17日 礼拝説教 働き人募集 マタイ9章35~38節

  働き人 募集!    マタイ9章35~38節   ①はじめに  皆様、おはようございます。猛暑が続いております。お気をつけください。本日もマタイによる福音書から学びます。先週は憐れみの福音と題して、主イエスさまが罪人や病人たちと食事を共にして憐れみを施された場面を学びました。座っていた徴税人マタイがイエスに見つめられ、立ち上がっていくことができた物語から学びました。今週は働き人、募集!と題してお話しますが、先週習字を玄関のところに貼っていまして、もし働きたいのですがって来たらどうしようと思っていたのですが、どなたもお見えにはなりませんでした。イエスさまにはマタイをはじめたくさんの働き人がいました。    本日の箇所の35節をみますと、イエスさまが町や村を巡って福音を伝え、癒しをなさった姿が描かれていますし、また36節には 「また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」 とありますように、マタイ9章のキーワードが出てきます。それは 「深く憐れまれた」 という言葉です。何度も申していますが、これは、自分は無関係な高い所にいて、苦しんでいる人々を「かわいそうに」と見下ろしているような「憐れみ」ではないのです。自分自身のおなかが痛むような、そういう真剣な同情をもって主イエスは人々の様子をご覧になったのです。同じ痛みを共有するような痛みです。その深い憐れみの思いによって主イエスは、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。イエスさまは、本当に優しいお方です。同情心に溢れ、はらわたがよじれるような思いで、他の人の痛みを自分のものとし、その痛みを見つめ、癒し、立ち上がらせます。   ②本来の姿でない羊たち  また36節には「 「また、群衆が羊飼いのいない羊のように 」という言葉がありますね。 主イエスの目線の先には「羊飼いのない羊」のような群衆がいて、弱り果て、打ちひしがれている姿がありました。本日交読しました詩編23篇には「「主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない」とあります。イスラエルの民はずっと羊飼いなる主に守られて養われてきた民であるという自覚がありました。自分たちは羊の群れだと意識するということは、自分たちを守り導いてくれる羊飼いがおられる、ということが前...

8月3日 平和聖日説教 神の言葉の権威 マタイ8章5~13節

 8月3日 平和聖日説教 神の言葉の権威 マタイ8章5~13節 ①はじめに 傷つける言葉 生かす言葉  皆様、おはようございます。8月になりました。8月は平和を考える時でもあります。本日は平和聖日です。現代ほど平和が望まれている時代はありません。その平和を覚えつつマタイによる福音書からみことばを取り次がせていただきます。  まず「傷つける言葉、生かす言葉」という話をします。安海牧師という方の体験談です。それは以下のようなものでした。  先日、朝のテレビで、退職したご主人たちのアンケートの集計が紹介されていました。その中で興味深かったのは、退職してからショックを受けた妻の言葉のベストテン、という のがありました。無意識のうちにご主人の心にショックを与え、傷つけている奥さんの言葉、 いろいろあるのに驚きました。  ナンバーワンは、「仕事どうするの?」という言葉。 ご主人、つらいでしょうね。 ひどいのがありました。「一日に三度、 家で食事するの?」ガックリでしょうね。 次に、「散歩でもしてきたら!」 なんか、邪魔ものみたい。「趣味でも持ったら!」プレッシャーですよね。もっともひどい、強烈なのは「誰かと旅行でもしたら!」 婉曲に出て行けみたい。  笑って見ていた私は、だんだん真剣な顔になりました。怖いですね。どうして、こうなっちゃうのかなあ。 本来はどうあるべきなのかなあと考え させられました。もしこの逆で、こう言われたら、うれしいし心安らぐと思いました。「仕事どうする」ではなく、「長い間ご苦労様、ゆっくり休養してね」「一日に三度食事するの」ではなく、「毎日、昼も一緒に食事できてうれしいわ」「散歩してきたら」ではなく、「一緒に散歩しましょうよ」「一緒に趣味を始めましょう」、「一緒に旅行に行きましょう」と。こうなったらどんなに幸せでしょう。何が、どこが違うのでしょう。 後者の望ましい言葉に は「共に」、「一緒に」が共通しているのです。人間の言葉というのは持ち方一つで様々な意味があるのですね。人を元気づける言葉を語りたいものです。  このような事を考えますと、人間の言葉は何とも頼りなく、あるときは励ましもしますが、傷つけることも多いということがわかります。今日のテーマはそのような人の言葉でなくて神の言葉の権威です。 ②百人隊長の懇願  物語は、イエスがカファルナウムに来...

2025年8月10日礼拝説教 憐れみの福音 マタイ9章9~13節

 8月10日礼拝説教 憐れみの福音 マタイ9章9~13節 ①はじめに  皆様おはようございます。8月の第2週となりました。休暇も無事終了し、無事に帰ってこれまして感謝です。暑い日が続いております。ご自愛ください。本日は「憐れみ」の福音と題してお話しさせていただきます。  憐れみという言葉はキリエ・エレイソンというラテン語でもよく知られているものです。主よ憐れみ給えという名で知られているグレゴリオ聖歌はとても有名ですね。Youtubeをみていただければたくさんのキリエ・エレイソンがみれます。  本日の場面はマタイという徴税人の召しが記されている場面から始まります。マタイはイエスの「私に従いなさい」という言葉にすぐに立ち上がって従っています。そのようなマタイは、ある場面に遭遇します。それが10節からの内容です。   ② 徴税人と同席するイエスさま マタ 9:10 イエスが家で食事の席に着いておられたときのことである。そこに、徴税人や罪人が大勢来て、イエスや弟子たちと同席していた。   イエスさまはある家で食事をしようとされていました。ところが、この食事の席は通常の食事の席ではありませんでした。そこに本来そこにいてはならない人たちも混ざって食事をしていたのです。特にファリサイ派の人々には食事規定があり、食事をとる時には様々な決まりに従って食事をとる必要がありました。それだけでも大変なのにもう一つ問題が起こりました。  このイエスさまを必要としているのはマタイだけではありませんでした。ここでイエスさまは食事の席を徴税人や罪人と同席しておられました。つまり、イエスさまは彼らの仲間だと自覚しておられたというこです。それをファリサイ派の人々は批判しました。食事規定でさえも明確に守っているのに、イエスさまはこのような人々と同席するなんて赦せないと思ったのでしょう、彼らにはイエスさまの意図がわからなかったのですね。 ③ 徴税人と罪人  ここで注目すべきなのは、「徴税人と罪人」がセットででてきていることです。これを聞いてマタイはどう思ったでしょうね。実は彼こそ徴税人だったのです。自分のことを指摘されて、心中穏やかなはずはありません。なぜ徴税人が罪人と考えれてきたのでしょうか。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下に置かれていました。徴税人は、自分がユダヤ人であるにもかかわら...

新たに遣わされる私たち マルコ5:1-20

   新たに遣わされる私たち       マルコ5:1-20 ①はじめに  皆様おはようございます。9月になりました。以前は9月の第一日曜日は振起日ということで以前は守っていたように思います。今年はコロナもあり、本当に辛く窮屈な日々を私たちは過ごして参りました。後半になり、もう一度心を新たにして信仰の道を歩んでいきたいと思います。暑い日々が続いておりますが、神さまの恵みをうけて邁進いたしましょう。 本日の箇所は祈祷会でもやりましたので、祈祷会に出ておられる方は復習と思って聴いていただきたいと思います。本日の箇所はゲラサ地方で起こったとあります。ここは異邦人の待ちであり20節にはデカポリスという名称がでてきますが、デカは10を意味しますから10の異邦人つまりローマ人が建てた町があったということです。ゲラサはその町の一つです。  ここでのイエスはある人を追っておられます。それは汚れた霊に取り憑かれたゲラサ人です。とても異様な姿と状況がそこにはありました。3節を見ますと、鎖で止めておくことも出来ない、つないでいた鎖は引きちぎる。何よりも墓場を住まいとしている。この人の生き方はとても自虐的です。おそらく他の人であったら関わりたくない。そういう人物ですね。 ②自虐的に生きる人々  彼の姿は勿論皆さんとはかなり離れている姿であると思います。彼にとって注目すべきなのは、追いやられているという事ではないでしょうか。平常通りの生活が出来ずについつい自分を痛めてしまい、凶暴になり、この世から隔絶した場所でしか生きれない方々。  特に人から痛められた経験はとても辛い経験です。家庭内暴力により長年痛めつけられた人々と接してきました。それは簡単には拭い去ることのできない病です。それによって引き起こされる病気に愛着障碍というものがあります。  ネットで調べると「乳幼児期に長期にわたって虐待やネグレクト(放置)を受けたことにより、保護者との安定した愛着(愛着を深める行動)が絶たれたことで引き起こされる障害の総称。[補説]愛着障害を示す子供には衝動的・過敏行動的・反抗的・破壊的な行動がみられ、情愛・表現能力・自尊心・相手に対する尊敬心・責任感などが欠如している場合が多い。他人とうまく関わることができず、特定の人との親密な人間関係が結べない、...

人生最大の試練

人生最大の試練  創世記22:1~14 ①皆様おはようございます。7月最後の日曜日を迎えました。本日は創世記22章を開いていただきました。ご存知のようにアブラハムの生涯の最大の出来事です。この箇所は私にとっては忘れることの出来ない場所です。  以前もお話したと思いますが、ナザレンのユースキャンプでこの場面の寸劇を行いました。私の役は、何と犠牲になった子羊でした。目立たないように、逃げようとするのですが、捕まえられて、とうとう生け贄にされる。当時はやりの「想定外だ」を連発して、最後に、ピアノの中にあった赤い布をドバッと開いて、血に見せて終わりを迎える。この役のおかげで、私は助演男優賞をいただきました。  初めて動物の気持ちを考えながらの役でしたが、いい経験になりました。 ②老年になって訪れた最大の試練     ここにはアブラハムが経験した最大の試練が書かれています。自分が祈りに祈って与えれた息子を殺せとは。神さまもずいぶん意地悪です。青学の学生の皆さんにアブラハムを教えますと、それにしてもなぜ神さまはそのような試練を与えられたのですかという問いがかえってきます。  この時期はアブラハムにとって念願の子どもも与えられ、21章にゲラルの王アビメレクと誓いを交わし、ベエルシェバで井戸を獲得したことも語られていました。生活の基盤としての水を得たアブラハムは、老境に入りつつあって、最も充実した人生を送ろうという矢先の出来事でした。そこに最大の試練がふりかかるのです。 ③試練のない人生はないことも事実  以前、ある後輩から言われたことがあります。先生はとても恵まれていますよね。牧師で大学や神学校でも教えて、皆さんから信頼されて、何も言うことのない人生じゃないですかと。そのように見える?確かに私は幸せな人生を送れていると思うけれど、それは神さまの恵みに他ならない。それでも、持病はあるし、様々な試練はあるんだよという話をしたら、先生でも苦しい時があるのですかって驚いていました。  どんなに成功したように見える人でも、試練のない人生はないのだと思います。私は、一日何度も講壇の前で祈ります。十字架を見上げて。そうしないと、試練に耐えられないからです。皆さんが味わっておられる試練と比べたらそれは試練とは言えないものかもしれません。それでもアブラハム...

人間を知っておられるイエス

人間の心を知るイエス  ヨハネ2:23~25 ①はじめに  皆様おはようございます。7月第3主日となりました。  本日は、新共同訳の表題から説教題とさせていただきました。本日はこの箇所からどのような意味でイエスさま人間の心を知られるのかを考えていきたいと思います。 ②初対面のイエス  イエスさまはそういう人なのだと思います。ザアカイは嫌われ者であったといわれています。そのザアカイに対して、人が全員彼を嫌っているかをご存知のように、ザアカイに関わられます。今日あなたの家に泊まることにしているからと。ザアカイにしてみればもうビックリです。イエスさまはザアカイの声をかけて欲しいという声を知っているかのように彼に声をかけられます。まさに25節にありますように「イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。まさにその通りなのです。ザアカイはイエスに声をかけて欲しかった。その心の奥底からの気持ちがわかったかのようでした。  おそらくそこにイエスさまの特徴があるのだと思います。もう一つ例を挙げさせていただいければと思います。姦淫の現場でとらわれてきた女性に対してもそうです。皆の裁きの視線が集中する中イエスさまは彼女を責めたりはなさいません。冷静にその場を見極め、彼女を保護されます。そこに私たちは安心をするのですね。イエスさまは最後まで私を保護してくださる。裏切らないで望みをおいてくださる。姦淫の現場でとらえらえた女性が何とか助けて欲しいと願っている。その心を思いを知ってくださる主イエスです。  私たちの知る前から私たちを知っている方がおられる。だからこそ私たちはクリスチャンであり続けることができるのです。 ③いつもと違うイエス  本日の箇所を御覧になっていただければと思いますが、ここには少し違うイエスさまの姿を見ることができます。物語はイエスさまが過越祭の間、エルサレムにおられた時のことです。この前の箇所には有名は神殿から商人を追い出すという記事があります。イエスさまと一般民衆、祭司長律法学者との間に溝がみえるところですね。  一体イエスさまはどこがどう違うのでしょうか。  2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。  多くの人がイエスさまの信じたのです。...