人間を知っておられるイエス
人間の心を知るイエス ヨハネ2:23~25
①はじめに
皆様おはようございます。7月第3主日となりました。
本日は、新共同訳の表題から説教題とさせていただきました。本日はこの箇所からどのような意味でイエスさま人間の心を知られるのかを考えていきたいと思います。
②初対面のイエス
イエスさまはそういう人なのだと思います。ザアカイは嫌われ者であったといわれています。そのザアカイに対して、人が全員彼を嫌っているかをご存知のように、ザアカイに関わられます。今日あなたの家に泊まることにしているからと。ザアカイにしてみればもうビックリです。イエスさまはザアカイの声をかけて欲しいという声を知っているかのように彼に声をかけられます。まさに25節にありますように「イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。まさにその通りなのです。ザアカイはイエスに声をかけて欲しかった。その心の奥底からの気持ちがわかったかのようでした。
おそらくそこにイエスさまの特徴があるのだと思います。もう一つ例を挙げさせていただいければと思います。姦淫の現場でとらわれてきた女性に対してもそうです。皆の裁きの視線が集中する中イエスさまは彼女を責めたりはなさいません。冷静にその場を見極め、彼女を保護されます。そこに私たちは安心をするのですね。イエスさまは最後まで私を保護してくださる。裏切らないで望みをおいてくださる。姦淫の現場でとらえらえた女性が何とか助けて欲しいと願っている。その心を思いを知ってくださる主イエスです。
私たちの知る前から私たちを知っている方がおられる。だからこそ私たちはクリスチャンであり続けることができるのです。
③いつもと違うイエス
本日の箇所を御覧になっていただければと思いますが、ここには少し違うイエスさまの姿を見ることができます。物語はイエスさまが過越祭の間、エルサレムにおられた時のことです。この前の箇所には有名は神殿から商人を追い出すという記事があります。イエスさまと一般民衆、祭司長律法学者との間に溝がみえるところですね。
一体イエスさまはどこがどう違うのでしょうか。
2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
多くの人がイエスさまの信じたのです。これは一面感謝なことです。
2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
とあります。せっかく多くの人々が信じたのに、彼らを信用されなかったとはどういうこことなのでしょうか。
この「信用されなかった」という言葉は新改訳では「ご自身をお任せにならなかった」と訳されています。こちらの方がわかりやすいかもしれません。私たちが自分の身を任せられるのは相手を信頼しているからですよね。たとえば手術を受ける時にお医者さんに身をゆだねるには、手術が自分にはできないということもありますが、そのお医者さんの技術を信じているからですね。逆に医者を信用できていないと私たちは他の病院へ行くでしょう。
④信じるか、信じれないか
この「信用する」「お任せになる」というこの動詞は、実は23節の動詞と呼応しています。同じ動詞(が使われています)。
23節の「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」しかし、24節「イエスは、彼らを信用されなかった」は同じ動詞なのですが、一方では「御名を信じた」他方では「彼らを信用されなかった」となっています。
人々はイエスさまを信じました。人々はイエスさまに身をゆだねた。信用した。しかし、イエスさまは彼らを信じなかった。信用しなかった、という。
一体、この二つはどこに差があったのでしょうか。イエスが信用されなかった理由としては「すべての人を知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったから」(24節)となっています。そして25節の最後に「イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」とあります。
つまりイエスさまはこの時に自分を任せることのできない何かを人々の心の中に見たから信用されなかったということになります。
④1)しるしだけで信じる人々
先ず第一番目に、23節の、イエスさまを信じた、と言われている人々の信仰のあり方をもう一度考えてみましょう。
23節をもう一度ご覧ください。
2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
多くの人がイエスさまのことを信じたのはイエスのしるしを見て信じたのでありました。つまりイエスさまのなさった奇跡をみて信じたということでしょう。現代に生きる私たちは、直接イエスさまの奇跡を見たのではありませんが、自分が救われたこと自体が奇跡と言えば奇跡ですよね。
奇跡を見て信じた――これはもちろん悪いことではないですね。奇跡というのは信仰への入口になることは間違いないです。またこの「しるし」は言語をみると複数形になっていますから、イエスさまのなされた数々の奇跡を彼らは見ていたのかもしれません。奇跡は信仰の入口であり、励ましであります。
ウェスレーは私たちが義認は信仰の門であり、聖化は宗教そのものだと言いましたが、重要なのは私たちの信仰がその奇跡の出来事にのみ留まっているのではないかという問題です。
⑤このことをもう少し別の箇所から考えてみましょう。
ちょっとヨハネの福音書の6章を見ていただきたいと思うんですが、6章の24節から読みたいと思います。
<ヨハネ6:24~26>
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
この「しるし」は、またちょっと違う意味ですが、人々がイエスさまを捜して、多くの群衆がイエスさまの所に集まって来たのは、あなたがたは、26節の最後、「パンを食べて満腹したからだ」これこそが彼らが来た目的でした。
この記事の前には、イエスさまが男だけでも5千人という人々を、わずかな5つのパンと二匹の魚で満腹にさせたという記事が出てまいります。それ以来、多くの人々はイエスさまの周りに集まって来て、イエスさまを捜しにやってまいります。
もちろん何か食べたいからというのでなく、イエスさまがなさる奇跡を見たいという気持ち、イエスさまに対する好奇心というのがあって、イエスさまの所に集まって来ます。しかしイエスさまはよくわかっていました。あ、好奇心ゆえに人々は集まって来るんだと。
⑥フーテンの寅さん
アメリカにいる時にフーテンの寅さんをみるのが唯一の楽しみでして、かなりみました。全巻みました。その中で寅さんがバナナのたたきうりをする場面があります。よくあれだけ口が動くなと思いながらみるのですが、口八丁手八丁といいますか。口もやることも達者なことを指す言葉ですね。好奇心で人は集まり、いくらか売れるでしょうが、買ってしまって後で後悔することが多々ありますよね。見た目だけですぐに飛びつくと後で痛い目にあいますね。好奇心は長続きしないのです。衝動買いではなく、しっかりと見定めて購入したいものです。
⑦イエスの奇蹟と人々の反応
おそらくここにあるしるしが具体的に何を指すのかはわかりません。しかし、物語からみると、2章の初めにカナの婚礼がありますから、そのことをの噂がかなり広まっていて、それがエルサレムにも伝わっていたのかもしれませんし、さまざまな奇跡をイエスさまはなさいますからそれが評判になっていたのでしょう。
しかし、しるしだけで集まってきた人々をイエス信用なさらないのです。
真に悔い改め、真に救いを求めて、自分の弱さを自覚した人を信用なさいますが、こうした(単に好奇心に満ちただけの、あるいは自分の願望を満たしたいだけの)群衆に対して、心を開くことをなさいません。
「彼らはパンを食べて満腹したのです。要は自分の願望が満たされたから、わたしについて来ているだけなんだ」と。信仰と言っても、もし私たちの信仰が「自分の願望が満たされる」ということにだけ依存しているなら、そして「願望が満たされ続けている限り、イエスさまについて行く」というだけのものであるならば、どこか試練に遭ったり、悩みに遭った段階で、イエスさまのもとをみな去って行きますね。
⑧イエスが最も愛された人々はアム・ハ・アレツ(地の民)
聖書の中に登場しているイエスの弟子たち、ユダも含めて、すべてイエスさまを誤解していました。民衆もそうです。イエスを力の王だと考え、武力によってローマ軍を蹴散らすイエスを考えていました。しかし現実にはイエスは逆の行動に出られました。そこでイエスを武力の王と考えていたユダや人々はイエスさまを裏切ってしまいます。イエスさまはそのような目で自分のことを見る方に対しては、しるしだけのために、結局は自分の欲望のために集まってくる人々と同じだといわれるのです。
聖書の中にアム・ハ・アレツという言葉がありますが、イエスさまが本当に自分の方から愛された人たちは、権力欲にとりつかれた人々ではなく、地の民、つまり貧しい者、小さい者、病める者、悪霊につかれた者を救おうとされる。
当時、数にも入らないような人々、子どもたちをイエスさまは愛されました。
⑧この群衆の姿は私たちの姿を示しています――
申し上げましたように、私たちも神を礼拝する以上に、神からいただいた祝福に心が行く、ということはこれはもう事実ですね。事実です。たましいの救いを求める以上に、目の前の必要を満たしてほしい、とイエスさまに願いますね。たましいの救いだけなら死ぬ前でもいい、と思っている人たちもいないわけではないですね。
祝福を求めることは悪いことではありません。私も皆さんの祝福を祈りますし、願います。しかし、しるしだけを追い求めていくときにしるしがなければ信仰がなくなるということも起こることも事実です。信じる、信じないは、現象ではなく、もっと深いところで起こるものではないでしょうか。
⑨ ニコデモ 少し3章をみてください。ここにはユダヤ人たちの議員であるニコデモがでてきます。この人は宗教的指導者であり、高い地位にある人でした。
2節を御覧ください「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできないからです」。ここからわかることは、ニコデモも、主イエスのなさったしるしを見て、この人こそ神のもとから来た教師だ、と信じたのです。しかし彼はこの後、主イエスが「だれでも水と霊とによって新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」とおっしゃると、それが分からず、受け入れることができません。彼は10節で主イエスに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われてしまうのです。ニコデモはしるしを見て主イエスを信じたけれども、主イエスが自分を水と霊とによって新しく生まれ変わらせる救い主であられることは分からない、信じられないのです。
私たちは、なかなか自分の真実の姿に気づけないのです。群衆も自分たちの信仰がイエスさまに問われているとは思わなかったことでしょう。ここに落とし穴があるのではないかと思います。自分はすでにクリスチャンなのだけれども、しるしを信じる段階にとどまっているのではないか。群衆と同じような状態に陥っているのではないかという気づきが必要なのではないでしょうか。
⑩なぜイエスはそれほど厳しかったのか
しるしだけをみてイエスに従ったように見えた人々はどうなったのでしょうか。もう一度、6章に戻っていただきまして、60節をご覧ください。60節には弟子たち、つまり主イエスに従って来ていた人々の中の多くの者が主イエスの教えを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ったことが語られています。そしてその先の66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。主イエスを信じて従って来ていたはずの弟子たちの中から、このように離れ去っていく人々が出たのです。ヨハネ福音書はこのように主イエスのことを信じ続けることができずに去って行った人々のことを見つめています。その人々は本当には信じていなかった、本物の信仰がなかった、そのことを主イエスは始めからはっきりと知っておられたのです。だからその人々のことを信用なさらなかったのです。
⑪主イエスは私たちをご存知である。
でもそう考えると、私たちの信仰を問われているかのようですね。この物語は私たちの信仰を問うているように思います。果たして私はイエスさまからどのように見られているのだろうか。そう思うと、自分には自信がなくなるのが私たちではないでしょうか。
しかし、そこで重要になってくるのが説教題です。「人間の心を知る」主は私たちの心もご存知です。私たちの信仰がどちらに分類されるか、それはいろいろでしょう。深い信仰をお持ちの方もおられれば、しるしによって導かれたというかたもいらっしゃるでしょう。どちらに分類されようとも、一つだけ確かなことがある。それは神さまは私たちが弱い存在で、罪深い者であることをよくご存知なお方だということです。信じていると言っていても、逃げ腰になる私たちを弱さを知っておられるのです。人は目に映ることを見るが主は心によって見る」のです。それほど深く、私たちの心の奥底まで見ておられ知っていてくださるのです。主イエスの前では取り繕っても仕方ありません。本当の姿、本当の思いを隠すことは出来ないのです。
⑫一心にひたむきに主を求めよう
私たちに出来ることは、一心にひたむきに主を求めることではないでしょうか。あのイエスさまの着物の房に触って、その場を立ち去ろうとした女性のようにひたむきに求める者をイエスさまは拒まれません。鹿が川の水を死に物狂いで求めるように、ひたむきに主を求めましょう。私たちのすべてをご存知の主は、そのような私たちをしっかり受け止めてくださるに違いありません。
①はじめに
皆様おはようございます。7月第3主日となりました。
本日は、新共同訳の表題から説教題とさせていただきました。本日はこの箇所からどのような意味でイエスさま人間の心を知られるのかを考えていきたいと思います。
②初対面のイエス
イエスさまはそういう人なのだと思います。ザアカイは嫌われ者であったといわれています。そのザアカイに対して、人が全員彼を嫌っているかをご存知のように、ザアカイに関わられます。今日あなたの家に泊まることにしているからと。ザアカイにしてみればもうビックリです。イエスさまはザアカイの声をかけて欲しいという声を知っているかのように彼に声をかけられます。まさに25節にありますように「イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。まさにその通りなのです。ザアカイはイエスに声をかけて欲しかった。その心の奥底からの気持ちがわかったかのようでした。
おそらくそこにイエスさまの特徴があるのだと思います。もう一つ例を挙げさせていただいければと思います。姦淫の現場でとらわれてきた女性に対してもそうです。皆の裁きの視線が集中する中イエスさまは彼女を責めたりはなさいません。冷静にその場を見極め、彼女を保護されます。そこに私たちは安心をするのですね。イエスさまは最後まで私を保護してくださる。裏切らないで望みをおいてくださる。姦淫の現場でとらえらえた女性が何とか助けて欲しいと願っている。その心を思いを知ってくださる主イエスです。
私たちの知る前から私たちを知っている方がおられる。だからこそ私たちはクリスチャンであり続けることができるのです。
③いつもと違うイエス
本日の箇所を御覧になっていただければと思いますが、ここには少し違うイエスさまの姿を見ることができます。物語はイエスさまが過越祭の間、エルサレムにおられた時のことです。この前の箇所には有名は神殿から商人を追い出すという記事があります。イエスさまと一般民衆、祭司長律法学者との間に溝がみえるところですね。
一体イエスさまはどこがどう違うのでしょうか。
2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
多くの人がイエスさまの信じたのです。これは一面感謝なことです。
2:24 しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、
とあります。せっかく多くの人々が信じたのに、彼らを信用されなかったとはどういうこことなのでしょうか。
この「信用されなかった」という言葉は新改訳では「ご自身をお任せにならなかった」と訳されています。こちらの方がわかりやすいかもしれません。私たちが自分の身を任せられるのは相手を信頼しているからですよね。たとえば手術を受ける時にお医者さんに身をゆだねるには、手術が自分にはできないということもありますが、そのお医者さんの技術を信じているからですね。逆に医者を信用できていないと私たちは他の病院へ行くでしょう。
④信じるか、信じれないか
この「信用する」「お任せになる」というこの動詞は、実は23節の動詞と呼応しています。同じ動詞(が使われています)。
23節の「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」しかし、24節「イエスは、彼らを信用されなかった」は同じ動詞なのですが、一方では「御名を信じた」他方では「彼らを信用されなかった」となっています。
人々はイエスさまを信じました。人々はイエスさまに身をゆだねた。信用した。しかし、イエスさまは彼らを信じなかった。信用しなかった、という。
一体、この二つはどこに差があったのでしょうか。イエスが信用されなかった理由としては「すべての人を知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったから」(24節)となっています。そして25節の最後に「イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」とあります。
つまりイエスさまはこの時に自分を任せることのできない何かを人々の心の中に見たから信用されなかったということになります。
④1)しるしだけで信じる人々
先ず第一番目に、23節の、イエスさまを信じた、と言われている人々の信仰のあり方をもう一度考えてみましょう。
23節をもう一度ご覧ください。
2:23 イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。
多くの人がイエスさまのことを信じたのはイエスのしるしを見て信じたのでありました。つまりイエスさまのなさった奇跡をみて信じたということでしょう。現代に生きる私たちは、直接イエスさまの奇跡を見たのではありませんが、自分が救われたこと自体が奇跡と言えば奇跡ですよね。
奇跡を見て信じた――これはもちろん悪いことではないですね。奇跡というのは信仰への入口になることは間違いないです。またこの「しるし」は言語をみると複数形になっていますから、イエスさまのなされた数々の奇跡を彼らは見ていたのかもしれません。奇跡は信仰の入口であり、励ましであります。
ウェスレーは私たちが義認は信仰の門であり、聖化は宗教そのものだと言いましたが、重要なのは私たちの信仰がその奇跡の出来事にのみ留まっているのではないかという問題です。
⑤このことをもう少し別の箇所から考えてみましょう。
ちょっとヨハネの福音書の6章を見ていただきたいと思うんですが、6章の24節から読みたいと思います。
<ヨハネ6:24~26>
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
6:25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
この「しるし」は、またちょっと違う意味ですが、人々がイエスさまを捜して、多くの群衆がイエスさまの所に集まって来たのは、あなたがたは、26節の最後、「パンを食べて満腹したからだ」これこそが彼らが来た目的でした。
この記事の前には、イエスさまが男だけでも5千人という人々を、わずかな5つのパンと二匹の魚で満腹にさせたという記事が出てまいります。それ以来、多くの人々はイエスさまの周りに集まって来て、イエスさまを捜しにやってまいります。
もちろん何か食べたいからというのでなく、イエスさまがなさる奇跡を見たいという気持ち、イエスさまに対する好奇心というのがあって、イエスさまの所に集まって来ます。しかしイエスさまはよくわかっていました。あ、好奇心ゆえに人々は集まって来るんだと。
⑥フーテンの寅さん
アメリカにいる時にフーテンの寅さんをみるのが唯一の楽しみでして、かなりみました。全巻みました。その中で寅さんがバナナのたたきうりをする場面があります。よくあれだけ口が動くなと思いながらみるのですが、口八丁手八丁といいますか。口もやることも達者なことを指す言葉ですね。好奇心で人は集まり、いくらか売れるでしょうが、買ってしまって後で後悔することが多々ありますよね。見た目だけですぐに飛びつくと後で痛い目にあいますね。好奇心は長続きしないのです。衝動買いではなく、しっかりと見定めて購入したいものです。
⑦イエスの奇蹟と人々の反応
おそらくここにあるしるしが具体的に何を指すのかはわかりません。しかし、物語からみると、2章の初めにカナの婚礼がありますから、そのことをの噂がかなり広まっていて、それがエルサレムにも伝わっていたのかもしれませんし、さまざまな奇跡をイエスさまはなさいますからそれが評判になっていたのでしょう。
しかし、しるしだけで集まってきた人々をイエス信用なさらないのです。
真に悔い改め、真に救いを求めて、自分の弱さを自覚した人を信用なさいますが、こうした(単に好奇心に満ちただけの、あるいは自分の願望を満たしたいだけの)群衆に対して、心を開くことをなさいません。
「彼らはパンを食べて満腹したのです。要は自分の願望が満たされたから、わたしについて来ているだけなんだ」と。信仰と言っても、もし私たちの信仰が「自分の願望が満たされる」ということにだけ依存しているなら、そして「願望が満たされ続けている限り、イエスさまについて行く」というだけのものであるならば、どこか試練に遭ったり、悩みに遭った段階で、イエスさまのもとをみな去って行きますね。
⑧イエスが最も愛された人々はアム・ハ・アレツ(地の民)
聖書の中に登場しているイエスの弟子たち、ユダも含めて、すべてイエスさまを誤解していました。民衆もそうです。イエスを力の王だと考え、武力によってローマ軍を蹴散らすイエスを考えていました。しかし現実にはイエスは逆の行動に出られました。そこでイエスを武力の王と考えていたユダや人々はイエスさまを裏切ってしまいます。イエスさまはそのような目で自分のことを見る方に対しては、しるしだけのために、結局は自分の欲望のために集まってくる人々と同じだといわれるのです。
聖書の中にアム・ハ・アレツという言葉がありますが、イエスさまが本当に自分の方から愛された人たちは、権力欲にとりつかれた人々ではなく、地の民、つまり貧しい者、小さい者、病める者、悪霊につかれた者を救おうとされる。
当時、数にも入らないような人々、子どもたちをイエスさまは愛されました。
⑧この群衆の姿は私たちの姿を示しています――
申し上げましたように、私たちも神を礼拝する以上に、神からいただいた祝福に心が行く、ということはこれはもう事実ですね。事実です。たましいの救いを求める以上に、目の前の必要を満たしてほしい、とイエスさまに願いますね。たましいの救いだけなら死ぬ前でもいい、と思っている人たちもいないわけではないですね。
祝福を求めることは悪いことではありません。私も皆さんの祝福を祈りますし、願います。しかし、しるしだけを追い求めていくときにしるしがなければ信仰がなくなるということも起こることも事実です。信じる、信じないは、現象ではなく、もっと深いところで起こるものではないでしょうか。
⑨ ニコデモ 少し3章をみてください。ここにはユダヤ人たちの議員であるニコデモがでてきます。この人は宗教的指導者であり、高い地位にある人でした。
2節を御覧ください「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行なうことはできないからです」。ここからわかることは、ニコデモも、主イエスのなさったしるしを見て、この人こそ神のもとから来た教師だ、と信じたのです。しかし彼はこの後、主イエスが「だれでも水と霊とによって新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」とおっしゃると、それが分からず、受け入れることができません。彼は10節で主イエスに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われてしまうのです。ニコデモはしるしを見て主イエスを信じたけれども、主イエスが自分を水と霊とによって新しく生まれ変わらせる救い主であられることは分からない、信じられないのです。
私たちは、なかなか自分の真実の姿に気づけないのです。群衆も自分たちの信仰がイエスさまに問われているとは思わなかったことでしょう。ここに落とし穴があるのではないかと思います。自分はすでにクリスチャンなのだけれども、しるしを信じる段階にとどまっているのではないか。群衆と同じような状態に陥っているのではないかという気づきが必要なのではないでしょうか。
⑩なぜイエスはそれほど厳しかったのか
しるしだけをみてイエスに従ったように見えた人々はどうなったのでしょうか。もう一度、6章に戻っていただきまして、60節をご覧ください。60節には弟子たち、つまり主イエスに従って来ていた人々の中の多くの者が主イエスの教えを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言ったことが語られています。そしてその先の66節には「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」とあります。主イエスを信じて従って来ていたはずの弟子たちの中から、このように離れ去っていく人々が出たのです。ヨハネ福音書はこのように主イエスのことを信じ続けることができずに去って行った人々のことを見つめています。その人々は本当には信じていなかった、本物の信仰がなかった、そのことを主イエスは始めからはっきりと知っておられたのです。だからその人々のことを信用なさらなかったのです。
⑪主イエスは私たちをご存知である。
でもそう考えると、私たちの信仰を問われているかのようですね。この物語は私たちの信仰を問うているように思います。果たして私はイエスさまからどのように見られているのだろうか。そう思うと、自分には自信がなくなるのが私たちではないでしょうか。
しかし、そこで重要になってくるのが説教題です。「人間の心を知る」主は私たちの心もご存知です。私たちの信仰がどちらに分類されるか、それはいろいろでしょう。深い信仰をお持ちの方もおられれば、しるしによって導かれたというかたもいらっしゃるでしょう。どちらに分類されようとも、一つだけ確かなことがある。それは神さまは私たちが弱い存在で、罪深い者であることをよくご存知なお方だということです。信じていると言っていても、逃げ腰になる私たちを弱さを知っておられるのです。人は目に映ることを見るが主は心によって見る」のです。それほど深く、私たちの心の奥底まで見ておられ知っていてくださるのです。主イエスの前では取り繕っても仕方ありません。本当の姿、本当の思いを隠すことは出来ないのです。
⑫一心にひたむきに主を求めよう
私たちに出来ることは、一心にひたむきに主を求めることではないでしょうか。あのイエスさまの着物の房に触って、その場を立ち去ろうとした女性のようにひたむきに求める者をイエスさまは拒まれません。鹿が川の水を死に物狂いで求めるように、ひたむきに主を求めましょう。私たちのすべてをご存知の主は、そのような私たちをしっかり受け止めてくださるに違いありません。
コメント
コメントを投稿